くらし・社会

介護の真実「誰かのために」は自分を守る・助けることもできる!

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コロナ禍で両親を想う気持ちがより深まった一方、介護を考える機会が増えた方も多いだろう。そんな介護について、長年、福祉の世界で働く子育てポエム作家のnaoさんが介護の真実を語ってくれた。

母を想い本当の自分に気づいたnaoさんが語る介護の真実

昔はこじらせっ子だった

介護の意味を調べてみた。辞書では障害者の生活支援をすること、あるいは高齢者・病人などを介抱し世話をすること、と書かれている。

私は幼少期から一筋縄でいかない変わり者で、自分のポリシーを曲げず、プライドが高いくせに自己肯定感が低かった。だから弱気を助けることにより自尊感情を保ち、長いものにまかれることにより安心感を得る。

母に、採算言われていたこと。

いつも何にもできないんだから、ボーっとしているのがあなた。人の話を全然聞かない夢ばっかり見て困った子。

自分にとっての精一杯のこと、自分にとってのありったけの真実。それらが、いつもさらりと交わされる。

そのうち段々と自信をなくし、嘘に嘘を重ね、強がり、頑なになり、とんでもなくこじらせた生き方。

母といると、また何か言われるんじゃないか。また、話を交わされるんじゃないか。

萎縮し、逃げたくなって、母と本音で向き合うことを止めてしまった。

突然訪れた母の死

そんな母がある日突然、この世を去ってしまった。恐らく脳出血だと思われるが、通院歴もなく、死因は不明。私が母の死を聞かされたのは、自宅に戻ったときに家宅捜査をしていた警察の方からだった。

お母様が本日、ご自宅で亡くなりました。お父様が第一発見者で、今、病院でお母様に付き添われています。

母と本音で向き合わなくなったと同時に、私は共に暮らしていた母の体調の変化にも気づかず。挙句、家族で暮らしていながら母はたった一人でこの世を去り、母の最期を警察の方から知らされる。

今朝まで、里芋を煮ていた母を当たり前の存在だと思って過ごしていた。里芋を煮ていた母は、夕方、普通に里芋を食卓に並べてくれるものだと思い込んでいた。

でも違った。

人の命は当たり前にあるものではない。

今まで、こじれた生き方をしてきたのを全て母のせいにしていた自分。
何も見ていなかった。
見ようともしなかった。

物事を正面以外の角度から見るという発想がなかったのだ。

自分のポリシーを曲げず、プライドが高いくせに自己肯定感が低いのは、誰のせいでもなく自分のせいだ。

母の言っていた、いつも何にもできないボーっとしている、人の話を全然聞かない夢ばっかり見て困った子。

それは正しかった。

もっと色々な角度から物事をみて、どんな小さな心の声にも耳を傾け常にアンテナをたて、今生きている場所・現実を把握する。

意固地なポリシー、自己を肯定したいが故の高いプライド。そんな鎧を身に纏っていても何も生まれない。何も得られない。失うばかりだ。

誰かの役に立ちたいと思い介護福祉士に

母を亡くした2週間後に、私は介護福祉士になるための専門学校に入学した。

母の体調の変化に全く気づかず、自分本意な生活をしていた自分。もう同じ過ちを犯すわけにはいかない。

弱気を助けることにより自尊感情を保ち、長いものにまかれることにより安心感を得る。そんな私を違う角度から見てみたとき、私は誰かに必要とされたい、一人ではなく誰かと何かをしたい。介護という一つのワールドの中で、誰かと誰かの役に立ちたい。そう思った。

障害者の生活支援をすること。あるいは高齢者・病人などを介抱し世話をすること。それだけが介護ではないと私は思う。

私のこんがらがった心のねじれを
真っ直ぐに
真っ直ぐに
導いてくれたのが、介護の世界だったから。

介護はする人、される人、時に立場が逆にもなる。

今、介護をしている人もどこかで介護をされている。

今、介護を受けながら生活しているひとりもどこかで誰かを介護している。

介護の介にはこんな意味もある。心にかける、気にとめる、だ。

そして介護の護の意味は、まもる、たすける、大切にする、だという。

単純に二つの漢字を重ねると、心にかけて大切にする。

障害者、あるいは高齢者・病人などの世話と対象者を限定せず、もっと視野を広げた介護の意味が当たり前となれば、きっと心が軽くなる人は多いかもしれない。

これからの介護の在り方

世話をし、介抱しなければならない。
世話をされ、介抱されなければならない。

そんな重たい責任という自負を背負わず、ただただお互いを思いやり、大切にするということ。知らず知らずにお互いが助け合っているということ。

私のように、こんがらがった生き方をしてしまっては人生損ばかり。

私は一つの命を守ることはできなかったが、守れなかった命から、私の命が守られた。

身体が弱っているから弱いわけじゃない。病に伏せている人は、助けられて生きる立場と決めつけてはならない。

一見、健康な人が心の奥の奥にしこりがあって、そのしこりを取り除いてくれる誰かが実は世間から見た弱者な場合もあるからだ。

そして今、介護を要して生活をされている皆様。どこかの誰かが、あなたを必要としている。誰かを救っているはず。

世の中に命の上下関係が少しでも少なくなるように。当たり前にある命は当たり前には存在せず。

当たり前に感じる命の上下関係は実は当たり前ではないから。

何が真実かはわからない。だからこそシンプルに、共に介護を。お互いがお互いを平らく同じ目線で。

介護の世界の在り方が、違う角度からもクローズアップされる社会になりますように。

文:nao

nao

1975年東京都生まれ。介護福祉士・児童発達管理責任者・行動援護従事者で一男二女の母。

幼少期からひたすら空想することが大好きで「こんなことができたらいいな」「明日こんなふうに過ごせたらいいな」と、空想の世界を理想郷としてなんとなくな大人になる。大人になり、いろいろな出会いときっかけの中で「はったつしょうがい」に触れる機会が多くなり、「はったつしょうがい」の素直な姿は、私の理想郷と感じる。「はったつしょうがい」であっても、ありのままの自分で居る姿が好きで好きでたまらなく、この想いを一人でも多くの方に伝えたるべく「はったつしょうがい」ための啓蒙活動を行っている。

naoさんについて詳しく知りたい方はこちら

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