私は埼玉育ちなので、海には思い入れが強い。
両親は九州出身で、子どものころは連休が来るといつも宮崎へ。海のあるところはプールがないので、夏の遊び場はもちろん海!!
海は近いので、家から水着を着ておにぎりを持って、家族以外に祖父母、イトコ、叔父叔母など、大勢で行くからもう朝からうれしくてたのしくて・・・。
私の海好きはこのころに刷り込まれたのに違いない(笑)
1.白いじいちゃん
父方の祖父はきれいで真っ白な白髪頭が特徴的で、自分のことを「白いじいちゃん」と呼んでいた。
校長先生をしていたので、謹厳で寡黙で、めったに笑わない明治男。そして趣味は碁と詩吟。
ぜんぜん小学生受けしない趣味なので、ちいさい私にとって祖父はちょっと近寄り難い人だった。
祖父は水泳が得意だったらしく、私が小学生くらいまでは一緒に海に行っていた。
ビート板のかわりにお風呂のふたを持って・・・。
これ、平成や令和の子どもは見たこともないと思うけれど、いまのお風呂のふたって、蛇腹状でくるくる丸めるタイプか、平たい薄い板を2枚乗せるタイプがほとんど。
でも当時の風呂のふたは3枚くらいの細長い板状に分かれていて、厚さは4~5cmで、保温のためか中が空洞で、空気が入っていて軽いプラスチック製のもの。
実家も祖父母宅もこのタイプだったから、当時はよくある風呂のふただったと思うんだけど、見たことない人に説明するのは難しい。
学校で使うビート板よりずっと長いけど、軽いし確かに浮くこの風呂のふた。
でも、しならないからバランスはよくなくて、ビート板より乗りにくいし、何より「コレお風呂のふたじゃん、ビート板じゃないじゃん・・・」という女子小学生のココロの声があって、使うのはちょっとためらったけど、祖父の心遣いを感じてもいたので、そのココロの声を実際に口に出したことはなかったし、ときどきは風呂のふたも使って遊んでみた。
「やっぱり使いにくいしダサい・・・」というホンネを口に出さなくって良かったと思う現在の私。
そんな無口だけど孫をおもいやってくれる祖父の泳ぎは、いわゆる古式泳法というのか、横泳ぎだった。
見たことない泳ぎ方だし、真似してやってみてもぜんぜんうまくいかないので、ここでも「変な泳ぎ方」というココロの声があったけど、あれは昔の泳ぎ方なのだと母に聞いて、なんとなく祖父にはぴったりだと感じていた。
今では水難救助とかに使われる泳法らしい。
顔を出して泳ぐから息継ぎがいらないとか、あまり体力を消耗しないとか、重たい鎧甲冑を身に着けたままでも泳げるとかいろいろメリットあるようだ。
2.すみえ
私は、宮崎の海は「すみえ」という名前だと思っていた。父がすみえに行くか?と聞くので、海=すみえと思い込んでいたのだ。
調べてみたら、須美江と書くようで、今ではけっこうな観光地になっている様子。
私の記憶では素朴な海の家とかちいさい売店はあったけど、そんなににぎやかな観光地ではなかったような・・・。
遠浅の海で、波も荒くなくて、小学生には遊びやすい海水浴場。
大きい浮き輪にすっぽりはまって波に揺られていると、それはそれは気持ちよくて、いつまででもそうしていたい気持ちになるけど、足のつかないところに行くのがいつも不安で、浮き輪から足を伸ばして砂地につかないと、「足がつかない!!!」と叫んで引っ張ってもらっていたのが懐かしい思い出。
両親や私より泳げるイトコたちは、海水浴場のブイまで泳いでいったりしてたけど、埼玉のプールに慣れた軟弱な小学生は、そこそこ泳げても「足がつかない」というのがどうにも恐怖で、いまでも足のつかないところには海でも川でも絶対行かない。
気が済むまで海で遊んだら、浜辺のシートに座ってお弁当を食べる。
そういえば、当時はパラソルとかテントとか、今のように大荷物で出かけることはなくて、ただ浜辺にシートを敷いただけでお弁当食べたり休憩したりできてた気がする。
大人は帽子とサングラスをしていたけど、日差しがきつくていられないほどじゃなかったように思う。
当時でも裸足で砂浜を歩けば熱くて飛び上がるくらいだったけど、やっぱり現代の日差しの強さ、気温の高さ、紫外線の強さは異常。
最近は泳ぎに行くことはすっかりなくなって、海は散歩したり磯を探検したりするくらいになってしまった。しかも夏以外に。
あっ!こっちが年をとったという説もあるが、須美江ビーチは波が穏やかなときは、波打ち際まで魚が泳いできているのが見えるくらい綺麗だった。
潮が引くとゴツゴツした岩場にできた潮溜まりにイソギンチャクやヤドカリ、エビやカニ、運が良いと魚も取り残されていたりして、
イソギンチャクをつついて指に吸い付かせてみたり、エビや魚を目を皿のようにして探したり、岩畳をどこまで遠くに行けるか試してみたり、
一度大きいイトコが浜辺に落ちていた鍋に、「フグを見つけた!!」と言って背中が緑色で、両手のひらを合わせたくらいの大きなフグを入れて持って来てくれたことがあった。
磯で見つけた魚としては人生最大級のフグで、いまではこんなおおきな魚が見つかる磯はよっぽど田舎に行かないとないかもしれない。
今でも海にドライブに行くと、磯に降りて延々探検している。
そのときは年齢も気分もすっかり小学生に戻っていて、どこまで行けるか試したいけど、、、年をとり、体重は増え、きっちり衰えた体力では岩から足を滑らせて海に落ちそうだし、がんばって岩場を飛び越えたとしても無事に戻れるかつい心配になり、途中で我に返って大人に戻るのが寂しいところ。
3.埼玉の外へ
コロナで世界がこんな風に変わってしまう前、子どもが小さいときは泳ぎに、大きくなってからはドライブや海鮮を楽しむ旅に、毎年海に遊びに行っていた。
私も子どもたちも混雑が苦手なので、たいていは春か秋だから泳ぎはしないけど、足をつけたり、貝を探したり、前述のとおり磯を探検したり・・・。
コロナのおかげで、仕事は別として埼玉県外へはここ2年ちょっと出ていない。
10代で遊び盛りのはずの子どもたちも、なんだかずっと家にいるようになり、そしてふたりとも充分遊ばないまま大人になってしまった。
本当は友だちと遠出したり旅行したり、夜遊びしたり都会に出かけたりするはずだったこの2年・・・。
2022年8月現在、最近は行動制限がないってことに一応なっているけど、子どもは出かけない癖が身についてしまった気がする。
私も仕事の関係上、感染リスクを考えるとつい出不精になって、海は遠きものになりにけるかな・・・といったところ。
今年の夏も残り少なくなってきたけど、人出の少ないところを選んでちょっと海に行ってみようかな?!
4.おわりにーー
さて、無口な祖父は時折手紙やハガキを送ってくれて、それがまた小学生には難解な候文で、しかも達筆な続き文字で、低学年の頃はほとんど読めなかった。
唯一わかるのは、末尾の署名「しろいじいちゃんより」
この署名を見ると夏の海を思い出していた。
夏休みにばかり会っていたからかもしれないけど、冬服の祖父母のイメージはまったくといっていいほどない。
祖父からもらった手紙の類は、何度も引っ越しをする中も長いこと保管していたのに、いつだったか、もういいかなと処分してしまったのが悔やまれる。
いくつかとっておけばよかった。
祖父母はもうとっくに亡くなり、宮崎の須美江ビーチに行くことはおそらくもうないだろうけど、久しぶりにネットで検索してみて、まだ綺麗な海らしいと思えて懐かしかった。
「懐かしい場所を訪ねてみても、絶対にもとのままではないから行かないのが良い」と、何かで読んだような気がする。
きっと須美江もそんな場所のひとつだ。